MEMBER
運営メンバー
坂下 誠司(さかした せいじ)
クリエイティブアーキテクト

1958年、島根県大田市の石見銀山近くに生まれ、現在は大阪府枚方市のひらかたパーク(ひらパー)近くに在住。
幼い頃はとても用心深く、座敷の少々高い敷台に手をついて後ろ向きになって降りていたらしい。毎日のように祖父のあぐらのなかに座り、墨を含んだ筆で真鯛の絵を描いていた。母は居間の襖4枚の下半分を白紙にしてくれて、そこに大きな船を全面に描いていたことを、よく覚えている。
小学校でも、相変わらず絵を描くのが好きで、県のコンクールに入選し、絵具とたくさんの画用紙をいただいた。すぐに使い切ってしまったが…。 この頃から自動車のおもちゃを壊しては組み立てたり、船の設計図らしいものを描いて自作して川に浮かべたり。小3で初めてリモコン戦車を一人で組み立ててからは、毎年大きなプラモデルを作り続けた。どちらかといえば、一人で何かをする子供だった。
中高では、勉強に集中するようにと、模型作りを抑えていたが、反対にアマ無線の免許をとって、様々な土地の人と交信した毎日だった。人見知りの克服にと、親が思って勧めてくれたことのようでもあった。 高校で出会った今でも大切な友人が、自分の行動を変えてくれたと思っている。初めての人や場に向き合ったときの自分の心の構えが変わっていることに2年生頃に気付いた記憶がある。
大学では、好きな電気系の研究を行い、その縁もあって大阪の大手家電メーカーに就職した。社会人になり、益々多くの出会いや自分で考え行動する機会を得ることになり、次第に自分でもやればできるんだ、という気持ちが強くなれたと思う。 小6の担任の先生が「出来ると思えばできる、出来ぬと思えば出来ぬ」という金言を教えてくださり、子供ながらに心にすっと入っていった。その言葉が、その後人前や一歩を踏み出すところでの後押しとなっているのは間違いない。今でもとても感謝している。
その頃、時代の大変革の真っ只中で、放送のデジタル化が全世界同時に湧きあがり、その待ったなしの研究開発と他者と協力して進める国の標準化にも参画した。 また、出向先の経営責任者を拝命し研究開発とは違う視点で見る経営の経験を得た。業界トップになる、社員が満足する仕事の在り方、その両立をとても考えさせられた。
2015年、約35年間務めた会社を退職し、すぐに国立大学の産学連携の仕事を始めた。 さらに多くの企業・自治体・大学研究者とのコミュニケーションを経験し、仕事でできたつながりが、また新しい仕事を生み出す切っ掛けになったこと。出雲の神様のご縁に深く感謝!!
2025年には、大学を退職。 「yuuandsmile」の思いに賛同し、これまでの経験を活かしつつ、皆様の目指す取り組みの意味も問いながら、将来に生きる取り組みになりますようお役にたてればと思っています。 「Creative Architect」として…。